北陸支部:竹内 申一
東京から金沢への移住
——東京から金沢へ移住した経緯についてをお話しいただけますか。
金沢に移り住んだのは2011年なんです。ちょうど3.11直後に、金沢工業大学に着任するのと同時に最初僕一人だけで来ました。それまでは2004年まで伊東さんの事務所(伊東豊雄建築設計事務所)に所属していて、その後独立して自分の事務所をやっていたんですけれども、40歳の時に二人目の子供が産まれて、なんとなくその時に、妻も東京出身でもないし、僕は愛知県出身ですけど、このまま東京にいるって感じじゃないなぁと漠然と思って45歳までには東京出ようと思ったんですね。
まあそんなこともあって金沢工業大学の話があったんで、それをひとつのきっかけとして金沢に移り住みました。最初はどこに行くかっていうのは、やっぱり出身地である愛知県に移るっていうことも考えましたけどまだ、残念ながら愛知県の教員の募集はその時なかったんです。金沢の募集があった時に、僕の妻が音楽家で、アンサンブル金沢と何度かお仕事させていただいていたということもあって、金沢はすごくいいところだと妻に言われ、それじゃ金沢工大の募集に応募してみようかっていうのがきっかけだったんです。もちろん金沢21世紀美術館ができてしばらく経っていたので、金沢という場所に対して単純に歴史的な場所だけじゃなくて、新しいものも芽吹いているし、美大(金沢美術工芸大学)もあったり芸術的な背景みたいなものも非常にしっかりとした土地だし、そういった意味で魅力的だなとは思ってたんです。そんなことで2011年にこっちに来て、家族は翌2012年に金沢に移住しました。
中土間の家
——金沢で初めて設計された「中土間の家」はどのような考えで設計されたのですか。
最初に金沢に来て設計させて頂いたのは、この「中土間の家」で、設計は2012年ぐらいにはもう始めていました。住宅の建て替えなんですけれども、お施主さんは金沢工大の構造の先生の、大学の後輩のご実家なんです。そんなつてで紹介いただいて、工大の先生の後輩は多分その時30代後半、ご両親は60代前半ぐらいで80代後半ぐらいのおばあちゃんがいて、その息子さんが一人まだ家にいるという状態だったんです。最初に打ち合わせで行った時に、お施主さんが非常に畑仕事が好きな人で、ちょうど畑仕事から帰ってきて泥だらけの格好で野菜ぶら下げながら、僕と玄関でちょうどあったんですね。ではよろしくお願いしますって言った時には、やっぱり東京でのクライアントと随分違う印象を受けて、こういう人たちのために、これから自分の建築を考えていかなきゃいけないんだなあと実感しました。伊東事務所では当時、新しい幾何学みたいなことを割と中心にやっていたし、自分が独立してからも、そういうことを一つの基準にして建築考えてましたが、そういうことではこの人たちにとって、ふさわしいと言うか、その人たちのためになるような建築にならないなって思ったんですよ。
その抽象的な思考だけではたぶん駄目だろうと思って、じゃあどうするかっていうことが意識の転換のきっかけになりました。それであれば北陸金沢という場所に来たんだから、その場所の特質と言うか特徴といったものを一つのベースに据えながら、ここにしかない建築を考えてみようかなということも思い始めて、それまでケネス・フランプトンの批判的地域主義とかちゃんと読んだことなかったけど、その後に改めてじっくり読んで、その地域独自の特殊性みたいなものから、何か普遍的なものを抽出していくような考え方で建築を考えていけばいいのかなと思ったんです。
北陸は冬すごく寒くて外に出る機会もないので、屋内に屋外のような大らかな外部的な空間を作りたと思いました。それは北陸の気候風土ってこともありますし、お施主さんの親族が近くにたくさん住んでいて、ご来客の多い家だったので家族に閉じたようなものではなくウェルカムな雰囲気のものにしたいし、できれば正月は家の中で餅つきをしたいって言われたんで、家の中に小さな庭と言うか広場みたいなものを内包したような住宅でかつ、家全体がパブリックスペースに開いた縁側みたいな家を作るといいんじゃないかなと思ってできたのがこの家です。
結果的に見ると、農家の真ん中に土間があって(農家は真ん中じゃないですけど)そこが生活の空間でありながら農業っていう生業の場所でもあり、一方で人が集まってくる公共的な場所でもあるような、そんなことに近づいたのかなと思ってます。
まちの家
——自邸の「まちの家」はどのような考えで設計されたのですか。
僕の家(自邸)は2015年に竣工して「まちの家」という名前を付けたんですけど、設計は実はずいぶん前からやっていて中土間の家を設計してる頃にスタートしました。金沢で仕事をしていくにあたって、ちょっとショールーム的なものも必要じゃないかっていう話が家族の中であったので、それなら自宅を建てるかってことになって、敷地を探してた時に非常に良い場所が寺町というところにあったんです。重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)になっているんですけどそこを購入したんです。もともとは古い民家が建っていたのですが、面積的に改修して住むには小さかったので、新築することにしました。重伝建で建築をつくることは東京にいたときには一度もなかったし、伊東事務所でも経験しなかったですけど、正直なんとかなるかなと思って始めたんです。計画段階で審査会みたいのがあるんですね。学識経験者とかいろんな人が集まった委員会でプレゼンテーションをして審査されるんですけど、実はこれは二つ目の案で、最初の案は横連窓の360度の窓が3層くらいあったのかな、そんなやつを持っていったら結果的にそれじゃダメだと言われて、一年半ぐらいですかね、棒に振りました。審議会では、もともとは小さな町屋が藩政期に建っていた場所だから町屋みたいな外観にすべきじゃないかとかなり強く言われて、そうは言われても僕は現代建築の設計者だし、どうしようかなと思ったんですけど…売られた喧嘩はちゃんと買わなきゃと思い直して、現代的な町家はどんなものかなってことをテーマにしてつくった家です。
さっきの中土間の家も広場みたいな玄関土間を内包していますが、僕の家は一階が音楽家である妻のための音楽室があって、その手前に大きな風除室があります。金沢に来て感じたのは風除室がついてる家がいっぱいあるんですよ。面白いのは、神社なんかも痛まないようにアルミサッシで囲われたりして、風除室をただ玄関につけるんだけじゃ面白くないなと思ったんで、その風除室を巨大化して、それを風除室兼まちの人にも割と気軽に利用してもらえるようなオープンスペースとして作ろうと。かつての町家というのはミセ空間が通りに面してあったわけですけど、それの現代版として社会とか地域とか、まちと繋がるような家のあり方が提案できるんじゃないかなと思って、1階は土間空間にして基本的には土足でずっと入って来れるようにしました。
主な生活空間は、この音楽室の奥が三層になっていて半地下が寝室、中二階が水回りと子ども部屋、2階がリビングダイニングです。2階はガラス張りにしてますけど奥行きと高さでのプライバシーを保っています。ここは重伝建といっても、バイパスをつないでるようなバスがバンバン走るような大きな通りなんです。なので藩政期の街のスケールとはもう全然違っているので、町屋としてのエッセンスみたいなものは引き受けながらも現代的な都市のスケールにも少し合わせるって事も含め、あと音楽室の残響時間を確保するための気積も必要だったので、2階のレベルは4.5 m、1.5層ぐらいの高さにあげています。
1階は、奥が音楽室で道路側が風除室というか土間空間です。風除室奥左側が玄関です。町家は奥行き方向に空間が連なってる空間形式なので、それを踏襲しようと思って奥行き方向に耐震壁がないようにしようと思って、長手の方は壁で解いているんですけど、短手の方はラーメンで解いてまして、1.5mの積雪荷重があるのでそれなりの部材にはなってくるのですけど、むしろ部材を細かく入れていくことが町屋の小屋組みたいな空間のイメージもあるし、少し空間の大きいスケールを分節してくれたり、それが空間を使っていく時に一つの単位になって、自分たちの生活に一つの基準を与えてくれるような家の骨格も作ってくれるかなっていうのもあって、細かい木組みの一方向ラーメン構造を選択してます。
2階も中間に梁の層があります。屋根の勾配は4.5寸か3寸勾配で重伝建で決められちゃうんです。これは3寸勾配で作ってるんですが3寸勾配とはいえ奥行きがあるんで結構天井高くなってきます。そうするとやっぱり空間の重心が上がりすぎちゃうんで、空間の重心を少し下げるというような意味でもこの梁組みたいなものが結構役立っいます。
建築を考える手がかりの変化
——2つの住宅の設計を通して見えてきたことはありますか。
中土間の家と合わせてみると、住居の2つの原型、農家と町家というものに行き着いた感じがあります。農家にしろ町屋にしろ当然その住居が建っているエリアによって、例えば京町家と金沢町家でも違いますし農家の仕組みも結構いろんな地域、それはどういう農業してるのかにもよるだろうし気候風土もあると思うんですけど、結果的に風土と関係を持った民家に結果的になんか近づいてたんだなっていうことを感じました。
自宅が竣工したのは2015年ですので、もう7年ぐらい経っています。残念ながらショールームとしての効果は無く金沢のあたらしい住宅の仕事はありません。金沢は寒さであったり、雨も多かったり、湿度も高かったり、天候もどんよりしたりしているんですけども逆にそういうものが、ぼんやりした感じって言うか、北陸特有の風景をかたちづくっているようにも思います。僕毎朝自転車に乗るんですけど、東京にいるときは多摩川を走っていたんですね。そうするとスパーッと富士山まで見えるわけですよ。湿度がないから。でも金沢に来てから犀川沿いのサイクリングロードを走っているのですが、湿度があるんで空間が水墨画みたいに奥行き方向に霞んで、遠くの方はもうなんか霞んで半透明になってるような、そんな風景なんですよね。そういう何か空間のパキッと見えない穏やかなどんよりとした、まろやかな光の感じとかも面白いなあと思いますし、そういう金沢の気候風土、北陸の気候風土みたいなものと建築の関係を考えながら、さっきの普遍と特殊みたいなものとの関係に行き着くのかなと思います。少なくとも金沢で建築を考えて行く時には批判的地域主義みたいなもの、ケネス・フランプトンが言ったらもう少し大きい話で多分日本とかアジアとかそのぐらいの大きな話だと思いますけど、もうちょっと小さな批判的微地域主義みたいなものを少し考えていけるといいなと思います。
あと去年、谷口𠮷生さんが設計された金沢建築館で開催された「金沢の力」という展覧会に企画と展示計画・デザインで関わらせて頂いたんですけど、そこでまたいろいろ金沢の歴史を勉強しました。東京にいる時に歴史に触れというか実感する場面がほとんどなくて、地方に来ると名古屋や大阪のような都市部でもない限り、まちとか建築は、そんなに早くは刷新されないじゃないですか。割といろんなものが残ってたり、人も割と動かなくて、具体的にというか物理的に歴史が感じ取れるようになっていて、時間に対する考え方みたいなものも東京にいる時と随分変わってきたなっていう感じもあります。東京にいるときは抽象的なことを手がかりに建築を考えたんですけど、金沢に来てからはすごく具体的なもの、関係とか出来事とかなんかそういうものをきっかけに建築を考えれるようになってきていて、それは良し悪しあると思いますけど、そんな傾向はあるんじゃないかなあと思っています。
——人との関係は変わりますよね。大阪では、どちらかというと割とべったり型なんで。さらっと行きたいのに、結構引っ張られることもあるし。でもそのディープな関係がずっと続いて、2件目、3件目をいただけるような、そういう間柄になっているのですが。東京ではそういうことはあるんですかね。
人との関係は圧倒的に変わりました。良くも悪くもべったりとなりますね。
昔からそこに住んでいる人たちはあるんでしょうけど、東京では小学校とかの関係だと、お父さんクラブの人たちと割とべったりだったりしましたけど、地方の方がやっぱり地域愛みたいなものを持っている人たちも多くて、そういう意味では当事者性みたいなものが強いというか、地域の問題が自分たちの問題だと言うことを、ちゃんと考えてくれる良さはある思いますね。
——そもそも東京を出ようと思ったのは、どういうきっかけですか。
二人目の子どもが生まれて、子育て環境としては決して良くないし、大学からずっと東京にいましたけど、実はそんなに豊かに暮らしているわけではないなと。いろんな意味で余裕のある生活がしたいなと考え、とにかく東京は出た方がいいなと思ったんですね。
——東京での建築の作品との違いはあるんでしょうね。
2008年に竣工したRavelという住宅は、コンクリートを井桁状に組み上げた感じです。中土間の家のお施主さんが見たらびっくりするでしょうね(笑)
伊東事務所では、長岡リリックホール、せんだいメディアテークや、まつもと市民芸術館を担当させてもらいました。
——九州の中でも、福岡博多も微妙な都市感で、べったりかと思えば意外とドライなんですね。福岡は仕事はやりやすいのですが、刷新していくまちを見ていると寂しく思うこともあります。金沢同様に町家というものを大事にするんですが、伝統的に振りすぎるというか、そればかりになってしまうので非常に勉強になりました。
金沢の人は保守的ですね。一方でそれでいいのかっていうこともあって何か前進はしていかなくてはいけないし、良い意味での異物が入っていかないと活性化はしていかないと思います。金沢では外部からの来訪者をまれびと(客人)って言うらしいですが、そういう人を珍重して、外からの文化を入れる役割として非常に大事にしていたと言うこと聞きました。そういう意味では、自分としては金沢にべったりしながらも、まれびと的な立ち回りをするべきだし、したいなと思っています。あと、城下町ということもあるんだと思いますが、結構批評し合うのが嫌いなんです。批評を批判だと思うのかもしれないんですけど、まあみんなで仲良くやっていこうよみたいな。城下町ってそういう文化なのかなとも思いますけど、そういうことも、もうちょっと変えていくと良いのかなということも思ったりもします。。内向きな意識の強さも感じますね。金沢の著名な建築は、東京など外から来てつくられたものなんですね。関東の建築家が設計されたものが、金沢で見るべきものになっていると言う感じにしかなっていなくて、本当はそれではダメで、金沢または北陸の建築家が設計したもので、ちゃんと見るべきものが育っていかないと、本来の地域における建築文化は醸成されていかないですね。そういう課題はあります。
——生活の中での時間の使い方。東京でやっていたときと金沢に移ってきたからの、生活の時間の流れがどう変わってきましたか。
圧倒的に移動時間が少なくなりましたね。伊東事務所に勤務しているときは往復で2時間かかっていました。今は早朝に一時間半時自転車に乗って、シャワーを浴びてから大学に行くみたいな。自分の仕事は研究室で夜やっているのですが、11時12時まで仕事することはないですね。そういう意味では無駄な時間はだいぶ少なくなったんじゃないですかね。自分の好きなことができる時間にあてることももちろんですが、建築に対して費やす時間もしっかりととれます。
金沢に来て楽しいなと思ったのは、僕は食べることやお酒を飲むことも好きなので、食生活の充実と言うことがすごく大きいのですね。何度も行ったことは無いですが、料亭とかに行くと凄く良い器で出てくるんですね。昔ながらの空間で、江戸期の襖や食器が使われていたり、食事を空間とかもてなしと一緒に体験するなんて、東京のときにはなかったので、そういう贅沢さというか豊かさですかね。それば一番大きいですね。時間よりも、そっちの方が一番変わったかなと思います。
後は、能登ではお祭りが盛んで6月から10月くらいまでいろんなところで祭りをやっています。たいまつを燃やして、喧嘩するようなやつもあれば、大きなキリコを海に出したり、勇壮な祭りがいっぱいあるんです。能登は金沢と全然文化が違う感じで、能登は縄文の時からの原始的な力強さがあるんですね。江戸期のきらびやかな前田家の文化もあれば、縄文に遡るようなものも感じられたり、歴史と言うことかもしれないけど、さっきの食だけとって見てもいろんなものがそこにくっついてくると言うかトータルに感じとれるのは楽しいですよね。
時間のことで言うと、大学での教育のこともあるので、かなり効率的にいろんなことをやらなくてはいけなくなったので時間の使い方がうまくなった部分もあるかも知れませんが…。
地方での建築を考える
——移住先で仕事を得るための不安なんかもあると思いますが、自邸のまちの家を見ているとオープンなスペースを作って、そこで何か関われる場を作っているというのは良いですね。
東京にいたときも一度引っ越したことがあるのですが、その時も引っ越し先でネットワークを作ったのはこどもでしたね。小学校のお父さんクラブみたいのがあって、知り合いもいないのでそこに入って、いろいろやっている内にそこから2件くらい仕事をもらえたりしました。金沢ではあまり大企業がないんですね。何代も続くような中小企業というか家業の人たちがいっぱいいて、旦那衆と言われる人たちがネットワークを作っているんです。そういう人たちが昭和の頃から学識経験者やいろんな人を呼んで話を聞いて金沢はこうあるべきではないかということを議論してきたそうなんです。行政だけではなく、民意の方でなんとかしていこうという動きがあったりするのは凄く面白いなと思っていて、これからも金沢の旦那衆たちを応援しながら、もっと盛り上げていかなければと最近思ったりもします。
——大阪では大きすぎる団体で遠い存在ですね。
大阪や名古屋では、結局大企業の支店長とかが頭をとってしまうんですよ。どんどん人も入れ替わってしまうし持続性がなくなってしまうんですね。金沢は基本的に何代目というような人たちが必ず頭に立ってずっとやってきていて、そういう文化は面白いなと思います。文化的なことや歴史・建築のリテラシーを持った人たちでもあるので会話も通じるし、そういう土壌としてはいいなと思います。
金沢では、誰々の誰々は知り合いといった狭い社会なので、人の関係は非常に濃いですね。それをうまく利用すれば強固な継続性のあるネットワークを作りやすいかもしれないですね。
ただ、批評し合ったりすることを嫌うので、北陸で活動したり出身の人たちのサークルみたいな北陸アーキテクチャープラス(Ha+)というのを立ち上げて、年に数回集まって活動しています。
——話は変わりますが、近年建築のコストが上がってきていますが、これからの時代建築家はどう対処していけばいいのでしょうか。
わりと金沢は職人さんがまだいる方だと思うのですが、この5~6年でずいぶん上がってきていますね。そもそも日本の賃金が安すぎるのでしょうね。
——日本では建築家の地位も低いじゃないですか。
伊東さんのアメリカの仕事のお手伝いをしたことがあるのですが、設計料は、建築家とローカルの事務所と合わせて、日本の数倍くらいはありますね。
——地方では建築家はそれほどメジャーでないということはないですか。
SANAA(金沢21世紀美術館)や谷口吉郎さんの存在がありますからそうではないと思います。谷口吉郎さんは金沢の名誉市民第1号なんですけど、歴史的な景観の条例を作るきっかけとなった人でもあって、非常に知名度が高く、谷口吉生さんが鈴木大拙館を設計されているのもあるし、谷口建築のマスターピースということもあるし、建築家が身近な存在としてあるのではないでしょうか。地方で建築を考えるのは経済だけで考えなくてもいいし、実感のこもった歴史や文化、生活といった根拠をベースに建築をデザインしていけるんでないかなと思いましたね。伊東さんは対モダニズムといった大きなテーマに向かっていくような感じでした。それはチャレンジングですごいことだと思うのですが、一方でデザインしていく上での根拠がほしいじゃないですか。そういうときに、歴史とか風土とか地域性がひとつのヒントになるし、それを批判的地域主義みたいに普遍化していこうと思えば、また大きな歴史にもつながる部分もあるんで、そういったことをしっかり考えられる、実感を伴って考えられるのが地域・地方の面白さだと思います。でも、ただのローカリズムになっちゃたらダメだと思うんです。その辺の距離感が難しいだろうなって思っています。批判性の無いべったりな地域主義になってしなったらもうダメなんでしょうね。
——でも、ほとんどがそうなって行くんでしょうね。
まあ、その方が受けが良かったりもするんで。金沢だったら昭和初期の町家みたいのを建てれば、すぐにいいねという風になっちゃうので、そういうのは嫌だなと思ってたりします。とりあえず格子付けとけとか。地域は罠、危ないなという部分もあると思います。そこにはまってしまうと抜けられない。
——でも、それを超えるものがある。
それをちゃんと意識して、目指してやっていれば僕はいいと思いますけど。リアリティが持てる分、それで満足してしまうとダメというか。
——金沢の人口は増えてきてるのですか。
横ばいですかね。ただ、小学校の時から金沢はこんな歴史や文化があるよ。いいところだよ。と教えられて、一回都市圏に出てから戻ってくる人が多いですね。
——竹内さんの立場としては金沢にまだ入り込まずに冷静に俯瞰しながら活動しているような感じでしょうか。
完全に入り込まず、付かず離れずの距離感でしょうか。
——マインドして入りすぎると建築的にどっぷり感が強くなるということでしょうか。
まれびとの話をしましたけど、求められているものとしても、自分がそういなければならないという感じでしょうか。
——農業とかでUターンやIターンで来られる方は、どっぷり感をだすじゃないですか。地方ではどっぷり感を表に出さないと認めてくれないところもありますね。そう思うとニュートラルな感じで建築を見られてるなと思いました。
ちょうど10年経って、今までの10年は学びだったと思っているので、次は学んだことどうやって展開していけるかなと言う感じですね。地域になじむのは10年くらいかかるなと思いました。ベルナルド・バーダーのように地域に居続けて、そこでできることかつ、でも何か新しいことに取り組んでいることも必要だと思います。
——旦那衆の話も地方ならではで、地方によっては、まちおこしとかにもつながっていくこともありますね。
皆さん、自分たちで何とかしようという当事者意識が高いんですね。自分たちのまちに対するプライドとか愛着とか、それって全国企業では育たないものだと思うんですね。そこに生まれ育って、そこをベースにして、そこに生きている人を対象としているので。当事者性といえばいいのか、そういうものの持っている力を感じます。そういう人たちの思いに乗っかって建築を作っていけると、建築がすごく大事にしてもらえるんじゃないかな。地方のいいところは、そんなにすぐに刷新されないので、自分が携わったものが数十年そこにあって、場合によってはそれが幾つか点や線になって広がりをもったりとか、そんなこともあり得るだろうなと思ってます。そんなことも有意義なことだと思います。
2022年3月28日 web対談
住宅等連携会議:井上久実(近畿) 家山真(北陸) 佐々木寿久(九州) 西村和哉(東海)